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2019年卒の学生が日々の学びや経験をアウトプットするブログ。

『デジタルネイチャー(1章)』を読んで

 

こんにちは、かず(@kazu_1247)です。

 

今回は、『デジタルネイチャー』1章のアウトプットをします。

 

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

 

第1章 デジタルネイチャーとは何か

ーオーディオビジュアルの発明、量子化、デジタル計算機、そして計算機自然、デジタルネイチャーへ

 

 

近代とはそもそも産業革命(技術)が資本主義(経済的イデオロギー)を発展させ、民主主義(政治的イデオロギー)を下支えした結果として成立したものだ。つまり、本書では、イデオロギーは技術の発展の結果成立するという立場を取る。(p41)

 

歴史を動かしてきたのはテクノロジーの発展だと思うので、僕も、イデオロギーはテクノロジーの産物だと思います。政治における決定というのは、あくまで守りの決定だと思います。一方で、内側をえぐるように変えていくのが、テクノロジーです。この両者が、お互いを潰すことなく作用していけばいいと思います。

 

政治での改革、ひいては民主主義そのものが難しくなっている背景には、テクノロジーの急速な発展があげられると思います。

例えば、政治的な決定を下す側の人間が、インターネットについてどれほどの理解があるのでしょうか。政治家だけでなく、有権者も今何が起きているのか正確には把握できません。それは、テクノロジーによって、社会や経済の変化するスピードが以前と比べものにならないくらいに加速しているからです。世界で何が起きているのか、蓄積され、分析されるべく情報量は爆発的に増加しています。

 

革新的なテクノロジーを発明するが、ビジネスでの成功を逸してしまうことも多かった。こういった彼のいくつかの活動は、今日においても「発明家」というよりも、「メディアアーティスト」と呼ぶのがふさわしいものもあるだろう。(p42) 

 

テクノロジーによる<近代>を考えるために、落合さんが取りあげる人物にトーマス・エジソンヘンリー・フォードがいます。

 

エジソンの多くの「発明」(あまりに未来的でビジネスチャンスに繋がることは多くなかったが)とフォードの「量産」。この両者が絡みあうことによって、マス(大衆)という概念が生まれ、デザインという発想が生まれたと言います。エジソンの発明が、フォードの生産形式によって、アートからデザインに落とし込まれました。

 

それから100年が経過し、私たちの社会は、今もなお<近代>の制約の中にある。我々の身の回りにある製品は、性能こそ向上しているが、道具としての本質的価値は、当時からほとんど変わっていない。(p51)

 

自動車は動力源などが変化した側面もあるが、本質的には変化していないし、ビジュアルとオーディオの発生装置も、映画やテレビ、スマホにおいて依然として不変です。これらは、現実と仮想が画面というフレームによって境界付けられている点で共通しているからです。

 

この点において、エジソン=フォード境界は、現代の製品にも継承されているといえます。

 

テクノロジーによる<近代>の定義ーー「エジソン=フォード境界」を乗り越えうる技術は、近年、次々と現れている。それはデジタルネイチャーの実現を促すキータームでもあるのだが、その中でも特に重要になる概念が、「体験の自動化・三次元化」と「生産の個別化」だ。(p52)

 

エジソン=フォード境界が現代の製品にも継承されている中でも、それを乗り越えうる技術は現れ始めていると言います。

 

「体験の自動化・三次元化」とは、コミュニケーションにフレームのある二次メディアを用いない手法や技術のことです。例えば、自動運転やVRグラスなどがあげられます。近代的なフレームを対象にした体験や、人間が操作の主体であることを前提としていないという点で、エジソン=フォード境界を超えようとしています。

 

また、VRやMR(ミックスドリアリティ)、空間ホログラムは、個を超越する可能性を持っています。ここで行われるコミュニケーションの対象は、近代的な個でなく、人間の感覚解像度に近しい自動生成された人格であるからです。これによって、マス伝達によるコミュニケーションは脱構築されていきます。

 

「生産の個別化」とは、フォード以来の大量生産ラインを経由しない、個人化・個別化された製造技術のことです。近年では、個人用にカスタマイズされた義手や、バイオ3Dプリンタ技術による人口臓器の生成に注目が集まっています。

 

これに関しては、人間社会でも同じことが言えると言います。これまで、人間を近代以降の「教育」によって直方体体型に揃える発想で社会を作っていきました。しかし、コンピューターが全体管理や個別最適化を行えるシステムが現れたことで、個人を画一化せずとも多様性が保てるようになりました。

<近代>の先にある、<人間>という制約から自由になった社会、それはある面においては近代成立以前、つまり、<人間>という概念が現れる前の社会に近いかもしれない。もちろん、<人間>という概念は近代の産物である。(p55)

 

そして、<人間>という概念から解放された世界では、江戸の都市のあり方が参考になると落合さんは言います。

 

江戸の街は、ごみの量が非常に少なかったと言われており、それを可能にしたのが、近代以前の多様性です。職業が緻密に細分化され、不要物の処理系統や、二次流通も年月を経て最適化されていました。「ごみ」という単一の概念にまとめて、燃やしたり、埋めることは、近代以降の合理化の発想です。

 

近代は「人間」という概念を発明し、産業革命に合わせ、産業の要請から、人々に職業を与えてきました。そこでは、人々を画一化(ノーマライズすることで、個体能力のばらつきによるコミュニケーションや前提知識などの非効率を乗り越え、生産力を最大化していました。

 

しかし、現在はテクノロジーの進化によって、低いコストで個人化(パーソナライズ)することができます。それはつまり、前近代的な多様性が維持されたまま、それと同時に全体が効率化された社会です。落合さんは、これがコンピュテーショナルな価値の算定と交換、環境に合わせた最適化問題解決によって初めて可能になると言います。

 

 

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

 

 

今回は以上です。

 

1章は、他にも「 AI + BI型 と AI + VC型 に分化する社会」や「タイムマネジメントからストレスマネジメントの時代へ」といったトピックもあり、これについては後日、別記事で書いていきます。

 

6章のアウトプットは、こちら

 

 Written by かず

 

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